マッハ新書ならぬマッハブログ(と言う名の落書き)

ただのポエムです。マッハでそれなりの文章を書くのが目的(訓練)なので、よほどのひどい誤字脱字でない限り推敲しません。

姥捨山、ふたたび・・・

なんともいたたまれない話ですよね。

news.yahoo.co.jp

まず大前提として僕は命の価値は等しくないと思っています。その等しくない命の価値の元に生きる権利(義務じゃないぞ)は当然ありますが、純粋な「価値」という視点では等しくないというのが僕の価値観です。このニュースの話で言うと、まだこれからを生きていく、年齢的にはピチピチ(笑)で子供を産むこともできる22歳の女性の命の価値は老若男女全体から見てもかなり高く、(これはかなり悪意を持ってあえて言葉を選ばずに言いますが)90歳で余命いくばくもなさそうな上に認知症、なぜまだ生きているのか、何の役に立つのかすら分からない老人の命の価値は限りなくゼロに近い。

つーかほとんど死んでるのと同じじゃん・・・。

えっ、そんなふうに命に価値を付けるのは倫理に反する・・・?まあ、そう思うのも個人の価値観なので自由ですし、別に賛同してもらう必要もないですが、実際に自分がこの立場になったとしたら結構悲惨だと思いますよ。多分、人生詰んでしまうのでその後を生きる意味すらなくなってしまう可能性が高いです。だって、そういうニュース山ほど見かけるじゃないですか。他人事だから実感できないだけです。

ちなみに言うまでもないですが、僕の命と自分の子どもの命では当然子どもの命の価値のほうがはるかに高いですし、同様にこれも言うまでもないですが自分の親よりも子どもの方が価値が高いです。だから僕は自分の子どもが困ることがないように生活を選択しており、現時点では自分の親は生活する上で何か選択肢が発生した場合の考慮には一切入っていません。ある意味、薄情と言えばそうなのですが、僕には両方を満たせるだけの財力がないわけで、選択を迫られる以上はどちらかを選ぶしかありません。なので、未来のあるほう、将来を担っていくほうを常に選択しています。

ちなみに自分の親にもそう言いましたよ。常に子供たちのことを優先する、と。

話を戻して・・・この事件の悲惨なところは、命の価値を上記のように考えたときに、ほとんど価値のない人間の存在によって非常に価値の高い人間の人生が狂ってしまったという点だというのは誰の目にも明らかです。それを解消するために全然関係ない第三者が面倒を見る「介護」という事業があるわけですが、それすらも現実問題としてはお金がないと利用することができないんですよね。このニュースに限って言えば、当事者に介護を利用する余裕資金があったとはあまり思えなさそうです。

ちなみに介護ってのも資本主義においては何ら資本的価値を生み出すものではないのは想像できると思いますが、それゆえに集めたお金以上に儲かることは絶対になく、補助金を前提としなければ事業として成立しないんですよね。

それは事業じゃなくて公的サービスって言うのが一般的だけどね

もうここまで(やや不本意に)寿命が延びてしまった以上、介護は国の公的事業にして、今回のニュースになったような人たちから引き取るのがスジだと思うんですよね。ぶっちゃけ人間としての耐用年数を超えて壊れてしまっているわけですよ。あなた、壊れた車をずっと面倒見ますか?って話です。ブレーキが壊れている車に乗りますか?乗らないですよね。この話は対象が人間なので、壊れたなら捨てればいいという機械とはわけが違って倫理的な話が付きまとうのは事実なのですが、だからと言って若い人たちのリソースを棄損するようなことは絶対にあってはならないわけです。ただでさえ人間としてもう役に立たないのに、役に立たないどころか輪をかけて大迷惑をかけることになるわけですから。

僕は壊れる前にこの世を去りたいですね

でもさ、国の公的事業なんてまさに姥捨山そのものじゃないかよ・・・と脳裏をよぎったわけです。この未曽有の状況にどのように生きていけばいいのか、どう選択するのが正しいのか(最良ではないです)、苦悩の連続が続くんでしょうね・・・。でも全てを選択することができない以上、この先を生きる全ての人にこの苦悩はきっと降りかかってきます。こうご期待!

こうご期待じゃねぇよ!!!www